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豊津小学校・祓郷小学校の思い出を紹介します

 

 児童数の減少に伴う学校再編計画に基づき、豊津・祓郷・節丸の3つの小学校を統合し、新生「豊津小学校」として開校しました。それに伴い、令和6年3月にみやこ町立豊津小学校と祓郷小学校が閉校しました。(節丸小学校は児童数の減少により、令和3年に一足早く豊津小学校と統合)

 多くの卒業生を輩出し、たくさんの思い出が詰まった小学校。広報紙では両校の卒業生やゆかりのある人からも、たくさんの思い出メッセージを募集しました。ここでは閉校記念式典の様子や、紙面に載せきれなかった思い出あふれるメッセージをご紹介します。

 

閉校記念式典

 

 令和6年3月にみやこ町立豊津小学校と祓郷小学校の閉校記念式典が開催されました。

 

 

 

思い出メッセージ

中村慧子さん
豊津小学校 元教諭
中村 慧子 さん
 

赤鬼が創った豊津小学校鼓笛隊

 昭和38年の5月頃に、福岡市の自衛隊(海兵隊?)のブラスバンドが豊津小学校で演奏をしてくれました。子ども達はもちろん、先生方もすごく感激をしました。ふつうは「素晴らしかったね」で終わるところですが、当時の校長先生(名前を思い出せません)が、「うちの学校でも鼓笛隊を創ってみてはどうか。」と投げかけられたことがきっかけで鼓笛隊を創ることになったのです。
 当時、校長先生のお考えは絶対でしたから、音楽主任をしていた私が担当になったのですが、どうすればいいのか分からず頭の中は真っ白でした。まず、演奏していただいた福岡市の自衛隊に指導していただけるものかをお願いをするところから始めましたが、快く引き受けてくださり、何度かご指導にも来ていただくことができました。
 しかし、基本的に何もないところからのスタートですから、何度か指導していただいたとはいえ、音楽に詳しくない私にとっては、つらい日々の連続でした。例えば、太鼓一つをとっても、大太鼓、小太鼓など叩き方が違うのです。それを一つ一つ指導しなくてはならないのです。そして、ある程度楽器の演奏ができるようになってくると、また別の問題が出てきます。歩きながら演奏しなくてはならないことです。音楽に合わせて歩くだけでも難しいのに、楽器を演奏しながら歩くのですから、子ども達にとってはとても大きなハードルだったと思います。さらには方向を変える時の足の運びは鼓笛隊特有のものがあります。
 このような状況ですから、子ども達がいくら頑張ってもうまくいかないことが多いのです。10月の運動会には披露しなくてはならず、当然指導している私は、烈火のごとく子ども達を怒り散らします。そこでついたあだ名が赤鬼でした。
 運動会当時のことです。鼓笛隊を披露するということで、豊津入口バス停(豊津中学校近くの交差点)から錦町の商店街を通り、豊津小学校の運動場までの約1キロメートルを、「豊津小学校の校歌とこんにちはトランペット(?)」の演奏をしながら行進しました。地域の方、保護者の方など多くの方からの拍手と涙をいただきました。
 子ども達の頑張りと堂々とした演奏、地域の方々の喜んでいただいている顔、それらすべてがこの何か月間の悪戦苦闘した私へのご褒美のように思えてなりませんでした。赤鬼というあだ名は、私の勲章のようなものです。
 そして、今なお、この鼓笛隊が続いていることに感謝しておりますとともに、今後ともますます発展されますことを祈念しております。

 


中村 英彦さん
昭和33年
祓郷緒小学校卒業
中村 英彦 さん
 

祓郷小学校の思い出
 

 祓郷小学校に入学して初めて校門をくぐったのは昭和27年4月の事。祓郷橋を渡ってすぐ右に折れ、80mくらい歩くと左手に御影石造りの厳かな門柱が建っている。当時はここが小学校の正門であった。構内に入ると古びた木造2階建ての校舎が並び、子ども心にかなり威圧的な佇まいだったと記憶に残っている。
 この木造校舎は入学して翌年に丸焼けになった。その日、夜中に「小学校が燃えている」と母に起こされ、真っ赤に燃えあがった校舎が火の粉をまき散らしながら火柱とともにどっと崩れ落ちる様子を、裏庭から目を凝らして眺めた。緊急事態が発生した学校では、焼け残った体育館をベニヤ板で仕切り、急場しのぎの教室でガヤガヤと騒々しい授業が始まった。
 そんな混乱の中で昭和30年の町村合併が施行され、豊津町との合併に反対する地区は行橋の小学校に転校し、同級生たちは泉小や中津小へと散り散りになった。我々の祓郷小学校は同級生が減ったおかげで、ふたクラスがひとクラスに再編された。
 しかし、終戦後の復興の様に立ち直りは早かった。焼け落ちた校舎も次々と復旧し、校庭のセンダンの大木は大火の類焼を免れ、春には紫の花を咲かせ野鳥の住処となって、フクロウの雛が巣立っていくのが学童たちの楽しみになった。
 ひとクラスになった我々同級生たちは、それはそれで纏りが良く、同じ少人数の節丸小学校にソフトボールの対抗試合を申し込んだ。試合には負けられないと、父親に自前のグローブを買ってもらい、夏休みには強化合宿と称してみんなで校庭に集まり、大事なグローブにワックスがけをして磨いた。結果は、意気込んだ甲斐もなく、期待に応えられなかった凡ゴロが今でも時折湧いてくる。
 学校生活もいつの間にか6年生になり、村上先生が担任になった。村上先生は生徒たちに人気があったが、着任早々に盲腸の手術をして療養が長引いたため、不足した授業は夏休みに登校して受けることになった。夏休みの補習授業は身が入らず遊び半分で、村上先生も学校に子供を連れてきて「自転車の乗り方を教えてやってくれ」という始末。特訓の甲斐あって、どうにか乗れるようになり、子ども心に鼻を明かした気分になった。
 あれから数十年の時を経て、学び舎もモルタル造りから近代的なコンクリートへと様変わりした。今では慣れ親しんだ往時の面影を偲ぶことは出来ないが、小学校時代の楽しかった思い出の証である施設もまた統合により閉校となる。
 長い歴史を刻んだ小学校の名前が消える事は残念だが、お世話になった祓郷小学校の次世代に向けたステップと思い直して応援していきたい。

 

閉校記念動画

 

 豊津地区育成会の皆さんが、豊津小学校・祓郷小学校、節丸小学校の閉校記念動画を作成しました。動画はYouTubeで公開されています。懐かしい校舎の様子をぜひご覧ください。

 

3校豊津地区閉校動画

 

 

 

豊津小学校

 

 

 

祓郷小学校

 

 

 

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